ノーベル平和賞の授賞式で、被爆者の立場から核兵器の根絶を訴えてきた
日本原爆水爆被害者団体協議会(略して日本被団協)の代表委員の
田中てるみさん(92)が演説を行いました
広島原爆ドーム
私も日本人の一人として、このメッセージをできるだけ多くの人に
届けられたらと思い、今日のテーマに選びました
とはいえ原文は漢字だらけの長くて硬い文章でもあるので
世界に向けて一番言いたかったことにフォーカスしてお伝えしたいと思います
田中さんは13歳の時に長崎で被爆しました。奇跡的に無傷で助かりましたが
5人の親族を亡くしています
ここからスピーチを抜粋&要約します。。。
長崎爆心地
私は爆心地から東に3キロ余り離れた自宅で被爆しました
1945年8月9日 爆撃機1機の爆音が突然聞こえるとまもなく
真っ白な光で体が包まれました
目と耳をふさいでふせた直後に強烈な衝撃波が通り抜けていきました
その後の記憶はありません
長崎原爆の惨状をつぶさに見たのは3日後、爆心地帯に住んでいた
親戚の安否をたずねて訪れた時です
。。。。この部分は惨状シーンの描写なのでカット。。。。
その時目にした人々の死にざまは、人間の死とはとてもいえないありさまでした
誰からの手当も受けることなく苦しんでいる人々が何十人、何百人といました
たとえ戦争といえどもこんな殺し方、こんな傷付け方をしては
いけないと、強く感じました
長崎原爆は上空600メートルで爆発。
放出したエネルギーの50%は衝撃波として家屋を押しつぶし
35%は熱線として野外の人々に大やけどを負わせ、倒壊した家屋の
いたるところで発火しました。多くの人が家屋に押しつぶされ
焼き殺されました
残りの15%は放射線として人体を貫き、内部から破壊し、死にいたらせ
また原爆症の原因をつくりました
その年の末までの広島、長崎2つの死亡者の数は
広島14万人前後、長崎7万人前後とされています
怪我を負い、放射線にひばくし、生存していた人は40万人
あまりと推定されます
生き残ったひばく者たちは、その後7年間、占領軍に
沈黙を強いられ、さらに日本政府からも見放され、
ひばく後の10年余りを孤独と、病苦と生活苦、
偏見と差別に耐え続けました
1954年3月1日のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって
日本の漁船が『死の灰』にひばくする事件が起きました
この事件を機に原水爆反対運動が盛り上がり
1956年8月10日 日本原水爆被害者団体協議会が結成されました
私たちの体験を通して人類の危機を救おう、私たちが体験した
悲惨な苦しみを二度と、世界中の誰にも味わわせてはならない
との思いを強くしました
2017年7月7日に122カ国の賛同をえて
『核兵器禁止条約』が制定されたのは大きな喜びです
核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく
核兵器は1発たりとも持ってはいけないというのが
原爆被害者の心からの願いです
想像してみてください。直ちに発射できる核爆弾が4千発も
あるということを。みなさんがいつ被害者になっても
おかしくないし、加害者になるかもしれない
ですから、核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、
世界中のみなさんで共に話し合い、求めていただきたい
と思うのです
原爆被害者の現在の平均年齢は85歳
10年先には直接の体験者としての証言ができるのは
数人になるかもしれません
これからは私たちがやってきた運動を、次の世代のみなさんが
工夫して築いていくことを期待しています
とりわけ核兵器国とそれらの同盟国の市民の中にしっかりと
核兵器と人類は共存できない、共存させてはならない
という信念が根付き、自国の政府の核政策を変えさせる力に
なるよう願っています
人類が核兵器で自滅することのないように!
核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて
共に頑張りましょう!!
広島平和都市記念碑
最後まで読んでくださってありがとうございます
ここの碑文にある、この誓いの言葉に尽きると思います
安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから
主語がないところが日本語らしいんですけど、英訳は
Let all the souls here rest in peace
For we shall not repeat the evil
ここでのweは、全世界の人々です 『過ち』とは、人類全体が犯した
戦争や核兵器使用を指しています
原爆の子・像